中国四川省大地震の被災者の方々には心よりお見舞い申し上げるが今回は「中国が何故、チベットや台湾に圧力を掛けるか?」について述べたい。

 周知の様に中国は共産党の一党独裁体制であるが、チベット弾圧、台湾問題の根は同じ所にある。即ち、「皆、平等でなければならない。」という共産主義思想は異なる主義・主張・文化の存在を認めない「不寛容」を必然的に伴う。

 「富と仕事を平等に分かち合う」という甘美な言葉で共産主義は20世紀初頭から世界中に広まったが、「平等・イコールであるべきだ」という主義・主張は「差があってはならない」、「異なる立場を認めない」という主義・主張に他ならず、歴史を見てもスターリン、毛沢東、ポルポト、金正日など共産主義の指導者達は殆ど例外なく言論の自由を封殺し、異を唱える者に弾圧を加えている。日本の連合赤軍の「総括」なども同様の帰結と考えられるが、様々な意見を出し合い多数決で決めるという民主主義のプロセスそのものが共産主義とは相容れないものであり、日本共産党の会議も多数決ではなく、全会一致である。

 塩野七生氏は『ローマ人の物語』の中で多民族、多宗教のローマ帝国が1000年以上も永続した理由の一つに異なる主義・主張を持つ人達の存在を認める『寛容』を挙げているが、現在、覇権国家である多民族、多宗教のアメリカも、異なる主義・主張の存在を認める寛容さがある。

 八百万の神の存在を認めて来た日本も2000年以上続いて来たが日本の戦後民主主義と称される物の実体は所得平準化税制や徒競走で手をつないでゴールさせる教育に象徴される様に「差」がある事を「非」とする共産主義に酷似している。

「平等」を金科玉条の如く扱う左派メディアの影響で日本人は「平等」という言葉が大好きだが、学校では「先生と生徒は対等」と言い出してから校内暴力や学級崩壊が始まり、家庭では「親子は友達関係」などと言い出してから家庭内暴力や少年犯罪が増え、「男女共同参画」と言い出してから育児を放棄する母親や働く事を放棄したニートなる青年が増えているという現状がある。

 前述の「ローマ人の物語」の中に「平等を強調すればするほど不平等な社会が出来る」という一節があるが、スタート地点が平等であれば、その後は努力によって結果には「差」がある方が健全な社会ではないだろうか?その点、日本は諸外国に比べて人種や身分によるスタートの差が殆ど無く極め恵まれている。

 自然界のものは手を加えなければ正規分布するが、米国では大富豪も少数しかいないが、餓死する人も殆ど居ない比較的正規分布に近い社会が形成されている。逆に富と仕事を平等に分かち合うはずの共産主義の中国や北朝鮮の方が支配層と一般国民との貧富の差は大きく貧困層は餓死する程である。身近な例では、学校間格差を無くそうとして学校群制度を導入した結果、公立学校の進学率が低下し逆に「子弟を塾や私立学校に通わせる経済力が親にあるか否か」という差が大きくなっている。

 後に「20世紀後半から21世紀初頭は人類が壮大な犠牲を払って共産主義が上手く行かない事を学んだ時代」と言われるかどうかは不明だが、いずれにしても「差」がある事を「是」とする「寛容」と、「差」がある事を「非」とする「共産主義」とは相容れず、異なる主義・主張は弾圧されるのである。




中国のチベット弾圧について
2008年5月15日