【成人式と国歌斉唱】
 今年もさいたま市の成人式に出席したが共産党の議員達は国家斉唱はもとより起立もしない。成人式で起立・国歌斉唱しないのは「自由と権利」なのだろうか?

 「自由と権利」の裏には「義務と責任」があり、「義務と責任」を伴わない「自由と権利」は「わがまま」に過ぎない事に異を唱える人は少ないだろう。成人式で来賓の挨拶中に大騒ぎをする事が「自由と権利」ではなく「わがまま」に過ぎない事に異を唱える人もいないだろう。

 成人式の来賓の挨拶中には私語を慎むという公共の場に於ける義務と責任があり、この公共の場に於ける義務と責任を日本語では「礼節」と称し、この「礼節」を教える事を「躾」と称するのではないだろうか?

 少なくとも私が小学生の頃は成人式で来賓の挨拶中にクラッカーを鳴らす若者などは皆無であった。当然その頃も素行不良の若者は居たが、私も含めてそういう連中は成人式などには出席しなかったのである。むしろ今、成人式で大騒ぎする若者は自己の存在を顕示するために傍若無人な振る舞いをするのであり、ある意味では彼らも自らの「義務と責任」はさて置き「自由と権利」のみを強調する戦後教育の犠牲者と言えるのかもしれない。

 学校の式典に於ける教職員と異なり成人式の来賓には国歌斉唱したくないなら欠席するという選択肢がある中で敢えて出席し国家斉唱をしないのは、先ほどの自己の存在を顕示するためにクラッカーを鳴らす若者と本質的な差は無い。

 従って、成人式に於いて脱帽、起立、国歌斉唱しないのは「自由」や「権利」の問題ではなくそれ以前の「礼節」とか「躾」の問題であり、国歌斉唱しないのは「我儘」に過ぎないのである。

 成人式では「二十歳になると選挙権という権利が与えられるが、それに伴う社会に於ける義務と責任も果たして欲しい」という趣旨の挨拶や祝辞が述べられる。

 昨年12月の定例会に於いて「成人式に於いて起立、国歌斉唱をしない人達、即ち自由と権利と我儘の違いが分らない人達は新成人の範となり得ないので来賓として招待状を出すのはいかがなものか」という質問をしたが、さいたま市の態度を示す明快な答弁は得られず消化不良であった。



2007年1月11日