日本人の敬老の精神が失われていく理由
 9月は敬老会のシーズンだが日頃医者をやっているとお年寄りが入院しても「家族が皆な知らん顔」というケースが年々増えている様に思う。

 この原因を無い頭で考えてみると、「平等」という事が強調されればされる程、敬老の精神が失われて行く様な気がしてならない。

 「人間はみな平等である」という事を否定するつもりは毛頭ないが、人間というもの、自分と対等の相手には「畏敬の念」は抱かないものである。

 人間は自分との「差」を認めるものに敬意を抱く訳であり、若者が高齢者を敬うという事は人生の「先輩・後輩」としての「差」を認める事に他ならない。

 この事は、先生と生徒の関係にもあてはまり、「先生と生徒は平等で対等だ」などと言い始めてから学級崩壊や校内暴力が増えている様だし、親子の関係に於いても「親と子は友達関係」などと言い出してから家庭内暴力や少年犯罪が増えている様に思う。

 最近はこの「平等・平等」が更にエスカレートして、「男らしさ」や「女らしさ」という事も男女差別に繋がるそうだが、私は「男と女」、「先生と生徒」、「親と子」、そして「目上と目下」、これらにはそれぞれの役割があり、平等・対等にはなり得ない。むしろ「差」がある方が健全であるとさえ思う。

 「平等という事を強調すればする程、敬老の精神が失われる」という論理には当然、御批判もあろうかと思うが、日本人の敬老の精神を皆様方と一緒に考えて行きたいと思う次第である。

2004年9月26日