児童虐待が開発途上国よりも先進国に多いのは何故か?
 先日、大阪で中3男子が餓死寸前まで実の親に虐待された事件があった。
 
 こういう実の親による児童虐待は子育て支援策が未整備の開発途上国よりも子育て支援策が整備されている先進国に多い様だが何故だろうか?

 開発途上国では、自分の子供をセックス産業に売り飛ばす様な虐待はあるが、実の親が自分の子供を虐待して餓死させる様な事例は稀で、我国に於いても私が小学生だった頃はこうした児童虐待は無かった様に思う。

 児童虐待が増えている原因として核家族化や地域コミュニティの弱体化により母親が孤立しがちである事、父親も不況で雇用や収入が不安定となり、ストレスを子供にぶつけがちである事などが指摘されているが、それだけでは児童虐待が開発途上国よりも、先進国に多いという現実が説明できない。

 人間も動物であり、その遺伝子にコードされている本能は「自己の保存」と「種の保存」である。前者は「食欲」、後者は「性欲」として発現するが、チンパンジー等の動物の行動を注意深く観察すると生殖は本能だが、子育ては本能ではなく学習である事がわかる。

 事実、我が子を虐待してしまう親は高率に自分も、実の親から或いは配偶者から虐待を受けたとか、幼少時に親から十分な愛情を受けなかったというヒストリーがある。

 言うまでもない事だが、人は極めて社会的な動物で集団社会を形成し支え合って行かないと「種の保存」ができない。我々の日々の生活も、衣服、食物、住居、電気、どれを採っても多くの他の人の力によって支えられている。そして、人は自分の足で、餌を獲る事ができるまでに最も年月を要する動物であり、育児は最も身近な他人を支える行為と言える。

 集団社会の一員として他人を支える事は「公に対する義務と責任を果たす」という事に他ならないが、児童虐待が開発途上国よりも、むしろ先進国に多発している理由は「個人の自由や権利」が重視される先進国では「私」が優先されるので、コミュニティという「公」が壊れて来る。逆に個人の自由や権利が制限されている途上国では「私」よりも「公」が優先されるのでコミュニティが保たれているという所にあるのではないだろうか。

 つまり、個人の自由と権利、プライバシーといった「私」の部分が強調されすぎると児童虐待や少年犯罪が増える。逆に個人の自由と権利・プライバシーといった「私」の部分が制限されている途上国では児童虐待も少年犯罪も稀で、別の意味で治安が良いのである。

 この「公私のバランス」が重要だが、最近の日本では少々、「私の自由と権利」が強調され過ぎて、「公に対する義務と責任」がなおざりにされ過ぎているのではないか?

 児童虐待対策の第一歩は、子供を産む自由と権利(=私)の裏には子供を育てる義務と責任(=公)がある事の学習であると思う。



2004年6月20日