2002年8月19日
男女共同参画社会の裏にあるもの
 男女共同参画社会の美名の下に、「看護婦」・「看護士」という呼称が「看護師」という訳の分からない名称に統一されてしまった。夫婦別姓の問題も子供の事を考えると戸籍上は夫婦同姓の方が望ましく、職場等で結婚後改姓する事により不利益を被るのであれば、婚前の名字を通称として用いれば問題ない事である。

 男性のみに選挙権を認める制限選挙にしろと主張している訳ではない事を御理解頂きたいのだが、「男と女」、「先生と生徒」、「親と子」、これらにはそれぞれの役割があり、「差」があって然るべきで、対等にはなり得ない。スポーツの世界ではほとんどの競技で男女別となっており、むしろ区別する方が公平である。

 これらの問題も突き詰めれば『「差」がある事を「是」とするか、「非」とするか』に帰結するが、問題はこの行過ぎた男女平等主義が「差」がある事を「非」とする勢力によって推し進められている所にある。

 塩野七生氏の「ローマ人の物語」の中に「平等を強調すればするほど不平等な社会が出来る」という一節がある。この事は教育に於いて平等を強調すればする程、塾や私学に通わせる事ができる経済力があるか否かの差が大きくなっている事や、共産主義諸国の支配層と一般国民の生活格差の大きさが証明している。一方、米国では大富豪も少数しかいないが、餓死する人も殆ど居ないという自然の法則通りの正規分布に近い社会が形成されている。

 我国の戦後民主主義と称される物の実体は税制や教育に象徴される様に「差」がある事を「非」とする共産主義に他ならず、現在の閉塞状況はその行き詰まりであり、我国はソ連、東ドイツ、北朝鮮と同じ運命を辿ると思われる。

 「差」がある事を「是」とする社会か・「非」とする社会か?〜細かい事はどうでも良くてこれこそ総選挙で国民が決める事だろう。

追記:小生は「差」がある社会の方が公平かつ健全だと思うが、最近は「差」がある事を「非」とする社会主義・共産主義を望む日本人の方が多い様な気がして来た。これも我国の公教育とマスメディアの努力の賜物と言えるだろう。