2002年11月1日
国家とは何か?
 瀋陽の総領事館事件や北朝鮮の拉致問題では「日本の国家主権が侵害された」と論じられる一方で、日本では「国のために働く事や、国のために戦う事が誤りである」という考え方が進歩的とされる風潮がある。

 そもそも国とは何だろうか?

 人は極めて社会的な動物で集団を形成し助け合わないと「種の保存」ができない事は、我々の日々の生活が衣服・食物・住居・電気・水道等どれを採っても多くの他の人の力によって支えられている事からも明らかである。

 人が社会を形成しないと生きて行けない限り、社会に於ける「自由と権利」の裏には社会の一員としての「義務と責任」を伴うのが民主主義の基本である。

 ギリシャ・ローマの時代から民主国家では、言論の自由と参政権(=選挙権)という自由と権利の対価としての義務と責任が兵役か納税であり、この基本構造は現代の欧米先進国に至るまで不変である。

 従って、民主国家とは「言論の自由と参政権という自由と権利の対価として納税か、或いは国防という義務と責任が課される集団社会」と定義され、言論の自由と参政権を認めずに兵役と納税だけを国民に課しているのが、北朝鮮やイラクの様な独裁国家と言えよう。

 日本という国に在住しその平和と繁栄を享受すれば、日本国という集団社会に対する義務と責任が生じ、憲法ではその義務と責任を「勤労と納税」と定めているが、現状は、国防はもちろん、直接税を納めている国民も38%に過ぎず、プー太郎とか称して勤労と納税という国民の義務を回避している若者が巷に溢れ、間接税(=消費税)も先進国では最低税率である。

 国防を放棄し、住民の大半が納税の義務を果たしていない日本は国家と言えるのだろうか?

 成人式で、来賓の挨拶中にクラッカーを鳴らす若者を見て「この国はもうすぐ滅びる」と思ったが、成人式の崩壊のみならず、政治家の汚職、官僚の腐敗、企業の不祥事、警察の不祥事など規律も規範も失った日本の現状は全て「公」よりも「私」を優先させた帰結である事に気付く。

 ここでの「公」とは、「集団社会の一員としての公共に対する義務と責任」である。例えば、成人式の来賓の挨拶中には、私語を慎むという「公共の場に於ける義務と責任」があり、クラッカーを鳴らすのは「自由と権利」ではない。

 第2次大戦後、GHQは自分の国を自分で守る事を認めず、「国家や公」よりも「個人や私」を重視する憲法を与え、日本人から「愛国心」と「ナショナリズム」という精神的な牙を抜き、二度と有色人種の国が白人の国に伍す事が無い様に企図したが、我国の戦後教育とマスメディアはGHQの予想以上に「公=国家=軍国主義=悪」とし、「公に対する義務と責任」を否定して来た。

 「私の自由と権利」のみが強調され、誰も「公に対する義務と責任」を果たさなくなり、国としての体を成さなくなったのがまさに今の日本であり、GHQの占領政策が見事に花開いた結果と言える。